「空気」と「世間」 (講談社現代新書)
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俗に「空気を読め!」などという言葉が近年あちこちで聞かれるようになったが、一体その「空気」っていうものは何なのか、というものを解析し、無言の圧力のようにのしかかるその「空気」に対処する方法について説いた書。
論旨を要約すると次のようになる。
・「空気」とは、古来より日本にあった「世間」という共同体の掟がグローバル化の流れで壊れてしまった現代における、行動に迷った際の判断基準である。
・贈与・互酬の関係、長幼の序、共通の時間意識、差別的で排他的、神秘性といった要素で成り立つ「世間」という概念は、明治維新の際に強引に入ってきた西洋の「社会」という論理を基にした概念と対立するものであり、「社会」の概念がキリスト教という唯一の神の存在を信じる事をバックボーンにして成立したものであったため、絶対的な神を持たない日本ではその後もダブルスタンダードとして隠れて生き続けた。
・「世間」が崩壊していく今、日本人が心の拠り所する何かは、「空気」に流されてしまう事なく、「社会」という、「対等性」や「適切な距離を置く」共同体、それも1つだけだとそこに依存する事によって「世間」化してしまう事を防ぐため、複数の共同体に緩やかに属する事が望ましい。
このような分析は非常に鋭いものだと思ったし、実際読んでいて何度も頷かされる部分に出会った。文体は新書での刊行を意識してあるので、雑誌「SPA!」の連載「ドン・キ・ホーテ」シリーズほどくだけたものではない。それでも「世間」を研究したジャーナリストと学者の2人の著作を多く引用し、それを踏まえた上で噛み砕いて分かりやすく解説し、そこに独自の考えを展開させているので、「空気」とか「世間」といった掴み所のない曖昧な概念(それが「社会」という論理の概念と相反するものであるため曖昧である事は当然なのだが)が、すっと胸に沁み込むように理解できた。
ただ、読み終えて、これは違うんじゃないかと思ったところもある。
結論の、じゃあ今後この息苦しい世の中を生き抜く方法として、「社会」的な関わり方にシフトしていきましょう、というのは、著者が主張するほど簡単な事ではないんじゃないかという点だ。
西洋と違ってキリスト教という絶対的な精神的支えのない日本では、結局「社会」そのものが人の心の拠り所と頼るには脆弱過ぎる。というか、いみじくも著者が本書で解説している通り、アメリカでも南部の貧困層は福音派という原理主義的なキリスト教の考え方の支配下にあって人々はそれに依存しており、穏健で絶対的な信仰を要求しないキリスト教宗派の信者は東海岸の都会における一部のインテリ層であるという事が示すように、著者が主張するような「社会」それ自体は実際には人の心の拠り所にはなり得ないのではないだろうか。
「社会」的繋がりとは結局、ある程度個人で判断が出来るだけの強さを持った人でないと有効に働かず、そして人は必ずしもみな強さを持っているわけではない。
例えば著者は、2008年6月に起きた秋葉原通り魔事件の犯人が、犯行直前にネット上で犯行予告を含め、共感してくれる誰かを探すかのように言葉を発信し続けていた事について、もしこの犯人が自分を受け入れ、守り、理解してくれるような、もはや存在しない幻の「世間」ではなく、同質ではない人たちが集まる「社会」に対する言葉を持っていたのなら、こんな事件は起きなかっただろうと記している。そして、その残された文章から見て、彼にはその能力があったはずだともいう。
しかし、仮にその能力が犯人にあったとしても、その同質でない部分こそが弱い人間にとっては越えられない壁と感じられるのだと思えるし、それゆえこの犯人は「社会」的な関わりを持とうというような発想は持ち得なかったのではないだろうか。
こうした点に於いて著者の語った理想は個人の心の強さに期待し過ぎていると思うし、そこに現実とのギャップがある以上、「世間」という概念が完全に壊れてしまった後の世界の息苦しさのみが想像され、支えを失った人によって生み出された混沌に満ちた未来が到来するのではないかと不安な気持ちにさせられた。
だが少なくとも著者が意図した通り、「空気」という見えない何かの正体だけは本書によって解き明かされているので、「空気」という言葉を無闇に恐れるような縛りからは解放させてくれる一冊であるのは間違いない。
現代は恐らく人間を取り巻く環境という意味において歴史的に大きな潮目を迎えており、その行き着くところは正直本書が示したところとは違うのではないかとは思ったが、とはいえ現時点でそれを予測するのはかなり困難だろう。それでも、今の時代を生きる個人個人に対し、ある種の気構えを求める警告書としての価値は、本書は十分兼ね備えているように思う。





あきゃさん 


みなみっくすさん 
